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「スゴ本」の中の人が選ぶ、あなたを健康にするかもしれない5冊

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こんにちは。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を運営する、Dainです。

今回は、何かと気持ちをあらためたくなる年明けらしいテーマでお話ししたいと思う。それは「健康」。

健康とは何か? WHO(世界保健機関)によると、健康はこう定義されている。

健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること
公益社団法人 日本WHO協会 - 世界保健機関(WHO)憲章 より抜粋)


そう考えると、健康であることのハードルは、けっこう高いと言える。なぜなら「体の調子が良くないけれど、病院に行くほどでもない」という状態は、健康ではないことになるから。

この「健康ではない」は、けっこうな幅がある。

まず、医者に行く場合。悪寒で震えが止まらないとか、日常生活に支障をきたすほどの痛みとか、毎晩眠りたいのに眠れないとか、明らかに異常事態になって、「健康でない」という判断を下す。でもそれ、ほとんど病気というやつ。

次に、医者に行くほどではない場合。身体のどこかしらに痛みや不調を抱え、それでもなんとか、だましだましで凌(しの)いでいる。ごくたまに、「ぐっすり眠れた!」とか「最高の脱糞!」という日に巡り合うと、それだけで生きているのが嬉しくなる。この「病気よりはマシ」以上、「WHOが定義する健康」未満が日常である。

少しでも「WHOが定義する健康」に近づくため、食べ物と飲み物に注意を払い、定期的に運動し、休息をしっかりとる。イライラとストレスを溜め込まないよう、適宜発散させる。それがなかなか難しい。「毎日ずっと健康です!」と胸張って言える人は、ひょっとして限られているのではないか。健康であり続けることは、人生の努力目標なのかもしれない

そんな努力目標にかなう本を選んでみた。いわゆる身体的な病気以前(未病)の状態をあれこれいじる「健康法」の本ではない。そんなのは流行り廃りを繰り返しながら、世の中に満ちあふれている。身体的なところは人それぞれだろうから、あなたに任せた。ここでは、WHOが言う「精神的・社会的」に良好となる状態を目指す5冊を紹介する。


1.アルボムッレ・スマナサーラ著 怒らないこと(サンガ新書)

怒らずに生きるための1冊

怒りが身体にダメージを与えることは、多くの人が感覚で理解するところだろう。怒りは、心の動きなのに、物理的に胸が苦しくなったり、頭がガンガンしたり、目の前が真っ白になったりする。ただ「怒りの対象について考え続ける」だけで、身体は強い痛みと苦しみを味わう。「怒りの対象を考えないように」努力するだけでも、身体は激しく消耗する。

怒りは私を壊す、そんなことは分かっている。だが、「怒らないこと」は難しい。私は、怒りたくないのに、「怒りの対象」が怒らせるのだ。そんな自分にとって、本書は深いところを突いてくる。

著者は、怒りをごまかす方法などに関心を持たない。自己欺瞞(ぎまん)をやめて、「私は怒りたいのだ」ということを認めろという。さらに、「なぜ怒るのか?」を理解せよと促す。どのようにして怒りが生まれるのか? 「怒り」を、よく観察してみろという(「怒り」≠「怒りの対象」であることに注意)。

すると、怒りにはさまざまな種類があり、裏側にいろんな感情が隠れていることが分かる。不安や心配、恥ずかしさや不甲斐なさ、寂しさ、痛み、疲労、不快、不当といった「思い」が最初にあり、それが「怒り」という感情を起動させる。つまり、怒りは二次感情なのである。

怒りの根っこにあるものは何か

「怒りは二次感情である」── ここまでは聞いたことがあるかもしれない。だが、不安や悲しみといった一次感情が、そのまま自動的に「怒り」に直結するかというと、そんなことはない。一次感情は、解消したりやり過ごしたりができるから。

本書は、そこからさらに踏み込む。不安や悲しみといった一次感情と、「怒り」との間、すなわち怒りの根っこにあるものに言及する。それは、「私は正しい」という思いだという。

つまりこうだ。「私にとって正しい何か」があって、それと現実がずれているとき、人は怒る。「私は正しい」のに、「この仕事がうまくいかない」と自分を責める。「私は正しい」のに、「病気になってしまった」と怒りを抱く。そういう人こそ、建前として「私はダメな人間だ」と謙虚(?)に振る舞いつつ、心の奥底では、「絶対にそうじゃない、私こそ、唯一正しい人間なんだ」と考えているという。しかしそれこそが、怒りスパイラルの原因なのだ。

その怒りを押さえ込めばよいのか? 著者は、それは新しい「怒り」だとして退ける。「怒りと戦う」感情もまた「怒り」なのだ。では、ストレスのように発散させればどうだろう? これも誤りだという。怒りをガス抜きすることは、怒りを正当化し、原因をごまかすことになる。

怒りを「観ろ」

では、どうすればよいのか?

著者は、怒りを「観ろ」という。観られた瞬間、怒りは消える。怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察するのだ。あくまで観察するのは、「怒り」そのものであって「怒りの対象」ではない。一次感情を特定し、何に対して「私が正しい」と思っていて、現実とどうずれているのかを観察する。怒りを味わうのだ。

これはかなり難しい。だが、ごまかすことも押さえつけることもせずに、怒りを「手放す」やり方は、これしかない。

本書は、仏教法話という形をとっているが、『怒らないこと』は、文化や宗教を超えた普遍性を持っている。自分の中の「怒り」を手放すことで、怒りのない人生を過ごしたい……。そんな願いを持つ方に、ぜひお薦め。私の場合、これで9割減ったぞ(それまで怒りすぎていたのかもしれないが)。

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2.アービンジャー・インスティチュート著 自分の小さな「箱」から脱出する方法(大和書房)

自分に嘘は吐けない

嘘を吐くのは難しい。もっと正確に言うと、嘘を吐き続けるのは難しい。

なぜなら、「嘘」と「嘘以外」との整合性をとりつつ、過去に吐いた嘘を全部覚えておき、なおかつこれから発言することも「嘘」と矛盾しないようにする必要があるから。嘘吐きは、それなりにアタマが良くないと務まらない。虚実の駆け引きのスキルを必要とする職業が、それなりにアタマの良い人で占められているのは、ちゃんと理由がある。

しかし、自分に吐く嘘は別だ。嘘を吐いている自覚がないから。そもそも嘘だと思っていない。心の底から、「正しいこと」だと感じている。自分の顔を自分で見ることができないように、自分の嘘は、自分で気付くことができない。もちろん、鏡やカメラを使うことで、自分の顔を見ることができる。だがそれは、本当の自分の顔ではない。

そう考えると、よく言われる「自分に嘘は吐けない」というセリフは、二重の意味で正しいことが分かる。「嘘を吐いても自分だけは知っている」という一般的な意味と、「そもそも嘘だと認識できない」という意味である。

自己欺瞞の罠

本書は、その後者を暴く。自分で自分に嘘を吐いていながら気付けていないという、自己欺瞞の罠を明るみに出す。家族や職場、学校など、身の回りの人間関係の「うまくいかなさ」は、この自己欺瞞の罠に陥っているのが原因だという。

あるビジネスマンに起きた「気付き」を小説仕立てで読み進めていくうちに、「ひょっとして、これ私のことなのかも……」と空恐ろしく感じてくる。

タイトルの「箱」をキーワードに、自己欺瞞→自己正当化→防御の構え→他者への攻撃→他者のモノ化、という連鎖がクッキリと見えてくる。そもそもの原因は「自分への裏切り」であることも刺されるように腑に落ちる。自己正当化の仮面がそのまま自分の性格と化し、いくつもの仮面を持ち歩く姿。自己正当化を正当化するため、相手の非をあげつらう態度。ここに書いてあるのは、「私」そのものだ。「私」が「私」に吐く嘘が、これでもかというくらい染みてくる。これは痛い。

自分が吐く嘘にどう気付くか

では、どうすればいいか?

どのようにすれば、自分が自分に吐く嘘に気付けるか。それは、個々人の経験に則して、問いかけと答えを掘り下げてゆくしかない。本書は、コーチングの手法を用い、「自分の行動」と「その時の自分の感情」という疑いようのない事実から出発し、最終的に自分への背信(=自己欺瞞)と向き合う。読み手は「私ならどうか?」という疑問を常に携えながら自問自答を繰り返し、主人公とともに「自分が自分に吐いた嘘」に気付けるようになる。

「箱」というメタファーで示される自己欺瞞。これに向き合うことは、とても怖い。誰にもばれないと思っていた「嘘」が、実は、自分以外の全員知っていたという事実に、向き合わなければならないから。嘘を嘘と思っていなかったのに、皆が気付いていたことを、遅まきながら認めなければならないから。

しかし、いったん「箱」を認めることで、そこから出ることができる。そうすると、いままで自分の何が人間関係をうまくいかなくしていたかが見えてくる。どれだけ人間関係を傷つけていたかに気付いて、ぞっとするかもしれない。だが、いったん「箱」が分かったならば、もっと楽に人と付き合えるようになる。

なぜ断言できるかって? 私自身がそうだったからね!

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3.ジョナサン・M・メツル編 不健康は悪なのか(みすず書房)

「健康」を疑う

次は、「健康」そのものについて疑ってみよう。

「健康」は、一見、誰も反発することも疑義を唱えることもできない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいもの。健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。

しかし 、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に美徳だと認められるからこそ、製品を売るために用いられても、そのレトリック(弁論術)に気づきにくい。本書では、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだす。健康に関する「物語」を疑えと焚きつける。

例えば、母乳ではなく人工栄養を与えている母親に、「母乳で育てる方が健康にいいですよ」と言う人がいる。その「健康」という言葉の裏側には「あなたは粉ミルクを使う悪い母親だ」という意図が潜んでいる。母乳で育てることを奨励する全米授乳キャンペーンが顕著だ。そこでは、「粉ミルクは危険だ」という意図を、健康というレトリックで伝えてくる。

あるいは、ビジネスと結びつくとき、健康レトリックは巧妙にふるまう。いわゆる「ドリルを売るには穴を売れ」の応用編、健康マーケティングとしての「治療を売るために病気を啓発する」やり方といえよう。製薬会社は、バイアグラを売るためにED(勃起不全)を、アデロールを売るためにADHD(注意欠如/多動性障害)を喧伝する。米ドラマ「ER緊急治療室」でアルツハイマー患者が配役されたのは、健康マーケティングの一環だと本書は指摘する。

健康をめぐる嘘と神話を暴く

本書は、健康に隠されたレトリックを暴く論文集である。医療、倫理、フェミニズム、哲学、法学など、さまざまな切り口から、健康をめぐる嘘と神話が明らかにされてゆく。「健康的な体形」は、そうでない体形に烙印を押す。「健康的な生活」「健康的な食事」 「健康的なセックス」など、この言葉に訴える際、ある種の価値判断が発動する。ダイエットやフィットネスといった言葉を援用することで、健康への欲望を作り出し、操作することが可能だ。

その価値判断は、健康の名のもとに押し付けられるため、健康ファシズムと呼ばれる。このレトリックは、あまりに巧妙に隠れているため、あらためて指摘されてなければ気付くことすら難しい。

本書を読むと、巷の「健康本」がレトリックまみれであることが分かる。そして、本書を通して常識を疑うことで、「健康」というマジックワードから自由になれるだろう。同時に「健康」を謳い(うたい)あげる、企業が 、国家が、ほんとは何のために「健康」を押しつけてくるのかを知ることになるだろう。

健康というレトリックに隠れた、イデオロギーを疑う一冊。

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4.リチャード・カールソン著 小さいことにくよくよするな! しょせん、すべては小さなこと(サンマーク文庫)

読むサプリ

ちょっとヘコんだときに読んで回復したり、定期的に読み返してイライラのない生活の過ごし方を確認するのにいい。

人生は有限だ。そう言うと、人は「時間」というリソースに目を向けがちだが、それだけではない。物事に取り組むための気力や感情、前向きな思考といったものも限りがある。そして、有限なのが分かっているのに、目先のことにイラついたり、悶々と悩み込んだり、延々と眠れぬ夜を過ごしたりする。

「幸せ」にリソースを費やせ

では、どうすればいいか。本書は、「小さいことにくよくよするな」を第1章として、100章のサプリが提供されている。私が何度も読み返している章のタイトルを挙げてみよう。

・頭で悩みごとの雪だるまを作らない
・死んでも「やるべきこと」はなくならない
・いま、この瞬間を生きる
・自分の葬式に出るところを想像する
・むかつく相手を、幼児か百歳の老人だと想像する
・正しさより思いやりを選ぶ
・幸せはいまいる場所にある

「小さいことにくよくよする」ことで、感情や思考の莫大なエネルギーを費やし、創造性や生きる意欲が失われる。なんともったいないことか。不安にさいなまれ、あれこれ心配しているうちに、どんどん時が過ぎ去ってしまう。

本書には、そうしないための小さいヒント、Tipsがある。ちょっとした発想の転換や、思考実験、口ぐせ、メンタルトレーニングを積み重ねることで、もっと気楽に、幸せに向けてリソースを費やそうとする姿勢になれるだろう。

練習で幸せになれる、そう確信が持てる一冊。

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5.トルストイ著 イワン・イリイチの死(光文社古典新訳文庫)

健康の不在から健康を考える一冊

本書は成功人生を送ってきた男が、病を得、日を追うごとに病が重くなっていく様子を描く。読み進めるほどに、だんだん「健康」から遠ざかってゆき、どんどん「死」が近づいてくる。

家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされるところなんて、自分に重ねながら読むと恐怖以外の何ものでもない。死が怖いというよりも、生の無意味さを、たった独りで思い知らされるのが嫌なのだ。

いつだって死はそこにいる

恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容という段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカをくくっていたのに、いざ順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。

気楽・快適・上品── 健康だった頃の価値尺度は、そのまま男の人生の虚構度合いを示している。他者との精神的な関わりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしがつかない。

これは怖いぜ。ここなんて特に。

なぜ、何のためにこんな恐ろしい目にあうのか、と。

だが、いくら考えても答えは見出せなかった。そしてよくあるように、なにもかも自分が間違った生き方をしてきたせいで生じたことなんだという考えが頭をよぎると、彼は即座に自分の人生の正しさをくまなく思い起こして、その奇妙な考えを追い払うのだった。
(書籍「イワン・イリイチの死」より)


ヒトゴトとして読んでいるうちは……彼の友人と一緒。通夜で神妙な顔をしながら、「ほかでもないその死が自分にふりかからなくてよかった!」と安堵することと一緒だ。これはどれだけ「自分の死」=「生」を考えているかのリトマス紙でもある。

「健康が失われてゆくこと」のシミュレーターとして読むと、「生きてるだけで丸もうけ」「死ぬこと以外はかすり傷」という言葉が浮かぶ。メメント・モリ(死を忘れるなかれ)という警句よりも、この短編のほうが、より「私の死」に近いところを刺してくると思う。いつだって死はそこにいる。それを忘れることなく、よく生きることに向き合おう。

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おわりに

「怒らない人生を選ぶ」「自己欺瞞から脱出する」「“健康”に潜むレトリックを見抜く」「小さいことにくよくよしない」、そして「死を忘れない」。もちろん完璧ではない。だが、私は、本を読むことで、これらの状態に自分を近づけていると思う(そして日々実践している)。

健康であることは、達成されたステータスというより、むしろ健康であろうと日々ちょっとずつ努める中に見いだす、良好な感覚なのかもしれない。

よい本で、健康な人生を。

著者:Dain

Dain

ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」 の中の人。気になる本を全て読んでる時間はないので、スゴ本(凄い本)を読んだという「あなた」を探しています。
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